YouTubeチャネルの累計再生回数が6600万回を超え、今年(2023年)10年ぶりに復刊した雑誌『パーカッション・マガジン』で表紙を飾った異色のタンバリン奏者がいる。大石竜輔さんだ。

タンバリン奏者の大石竜輔さんにインタビュー
タンバリン奏者の大石竜輔さんにインタビュー


金髪、長髪、ひげ、がっしり体型の大石さんは、一見、ヘビメタのバンドマンか悪役プロレスラーのように見える。そのインパクトのあるビジュアルで、『ぶっちゃけてしまえば別にゴミ箱でもいい』(155万回再生)、『2人なのに妙に圧がある情熱大陸』(284万回再生)などユニークな動画を次々とアップし、注目を集めるようになった。

しかし、決してウケ狙いのユーチューバーではない。テレビ朝日系『報道ステーション』の4代目テーマ曲「Brave」に参加し、全国の楽器店が選ぶ「楽器店大賞 2021」特別部門の大賞に選ばれるなど実力を高く評価されているプロのミュージシャンである。

「ガチタンバリン奏者」を名乗り活躍する大石さんだが、かつてまともに歩くこともできないほどの腰痛に苦しみ、音楽で生きることを諦めようとしたこともあるという。タンバリンは、腰痛の療養中にベッドの上で始めた暇つぶしだった。それがどうして、現在の活躍につながっているのだろうか? 

メガネに黒髪の好青年

大石さんは1987年、静岡で生まれた。3歳ごろからエレクトーンを始めたが、9歳でドラムに乗り換えた。

「姉と兄がドラムをやっていたんですよ。それで教室に行ってみたら、譜面がエレクトーンよりも圧倒的に簡単だったんでやってみるかと(笑)」

それからドラムに夢中になって……というわけでもなく、ドラムを続けながらも中学の3年間は弓道に没頭。高校時代は、吹奏楽部でパーカッションを担当した。ちなみに、高校時代はメガネに黒髪の好青年で、今の面影はほぼない。

将来の仕事として音楽を意識したのは、高校2年生のときだった。小学生のころからゲームが好きだった大石さんは、ゲーム音楽というジャンルがあることを知って興味を持った。

「ゲームの雑誌の特典で、『大乱闘スマッシュブラザーズ』というゲーム音楽をオーケストラで演奏したCDがあって、それをめちゃくちゃ聞いてたんですよね。それがきっかけで、ゲーム音楽を作る人になりたいと思うようになりました」

しかし、それまで作曲の理論を一切学んでこなかったこともあり、音大受験は難しかった。吹奏楽部の顧問からも「ドラムに特化したほうがいい」と助言を受け、路線変更。高校卒業後、神奈川県の元住吉にあったヤマハ音楽院ドラム科に進学し、「ドラムの先生」を目指すことにした。そこで、同級生10名とともにドラム漬けの日々を送る。

ゲームが好きだった大石さん。ゲーム音楽というジャンルがあることを知って音楽に興味を持ったという
ゲームが好きだった大石さん。ゲーム音楽というジャンルがあることを知って音楽に興味を持ったという

根拠のない自信

ドラム科に集まるのは、腕に覚えがある者ばかり。先輩も含めて、「ヤバい!」と驚くような技術を持つ人たちが大勢いた。それでも、気後れすることはなかったという。

「根拠がない自信みたいなのがあって、すごく細かい部分で自分が勝っている部分を見つけて『俺にはこれがあるし』と思ってましたね。たとえば、フィンガーストロークのスピードとか右足でペダルを2回踏むスピードが速い、みたいな。今思えばぜんぜんたいしたことないんですけどね」

練習も、ぱっと見ではどうやったのかわからないようなパターンを編み出したり、変わった手足のコンビネーションを磨いたりと、ほかの人がやらなそうなことを追求していた。

もともと「ふざけたり、目立つのが好き」な大石さんが現在のトレードマークともいえる金髪にしたのは、2年生のとき。「金髪のオールバックにしよう」という先輩の誘いに乗ったのが、始まりだった。

学校は2年制で、希望すれば研究生としてもう1年、残ることができる。いくつかのバンドに参加したり、離脱したりを繰り返しているうちに、いつのころからか、「ドラムの先生になろう」という思いは薄れ、「ライブハウスに出ているうちに、そのうち売れるだろう」と考えるようになった。

だから、在学中にプロの講師や先輩について現場で学ぶということもせず、バンドで成功することを夢見たまま卒業を迎えた。

心身が限界を迎えて

その夢は、無残に散った。当時、ドラムとして参加していたバンドは実績のあるメンバーもいて、ある程度の人気があり、売れる可能性を感じさせた。

しかし、華やかなステージの裏で、ほかのメンバーから技術レベルを罵倒される日々。自信を失い、委縮して、伸び伸びと演奏できる状態ではなくなっていった。「リハーサルのたび、駅について10分ぐらい気持ちを落ち着けてからじゃないと、スタジオに入れませんでした」と振り返る。

さらに大石さんを追い詰めたのは、腰のヘルニア。ドラマーには珍しくない病気で、日に日に悪化した。やがて電車で立っていることにも耐えられなくなって床に座り込むようになり、まともに歩くことさえ難しくなった。

足を引きずるようにして、激痛に耐えながら、「もっと練習しなきゃ……」とスティックを握り続けた。当然のようにますますヘルニアが酷くなり、楽屋で座っていることもつらくなって、常に身体を横たえるようになった。病院に行き、仰向けでひざを伸ばしたまま足を上げるヘルニアのテストを受けたら、5センチにも達しなかったという。

周りの友人が「おじいちゃんみたい……」と心配するほどで、この状態になれば、誰しも「もう辞めよう」と思うだろう。大石さんもある日、「腰もヤバいし、スキルも足りない。もう辞めよう」と覚悟を決めて、メンバーに申し出た。そのときに投げつけられた言葉は今も忘れていない。

「このバンドを辞めたら、音楽でなにかを成し遂げることは一生ないってはっきり言えるよ」

結局、心身が限界を迎えてそのバンドを離れたときには、学校を卒業してから2年が経っていた。

「もう、音楽を仕事にするのはやめよう」

23歳にして身体がボロボロになってしまった大石さんは、ヘルニア治療のため、静岡の実家に戻った。そのころは身体を起こしてなにかすること自体が苦痛だったため、基本的に寝ているしかなかった。重度のヘルニアの場合、患部に麻酔薬を注射することで痛みを和らげるブロック注射という治療がある。大石さんもブロック注射を受けたが、それでも「痛みが6割ぐらいになった」程度だった。

ドラムを再開すれば、また「1分歩くのもつらい」という激烈な痛みがぶり返すかもしれない。ブロック注射でも全快しないことに失望した大石さんは、「もう、音楽を仕事にするのはやめよう」と思うようになっていた。

専門学校で3年学び、2年間、バンドのステージに立ってきた若者にとって、それは苦渋の選択だ。鈍色の分厚い雲が垂れ込めているようなこの時期、気晴らしになったのがタンバリン。長引く療養生活で暇を持て余した大石さんにとって、ベッドに寝ながら気軽に遊べる楽器だった。

彼が初めてタンバリンを意識するようになったのは、先述のバンドで活動していた2008年ごろ。「アラブタンバリン」とも呼ばれる楽器「レク」の職人であり、奏者としても著名なイスラエル人、レブ・エルマンの演奏をYouTubeで観て、衝撃を受けた。

「めちゃくちゃ超絶技巧で、信じられないような演奏をしていたんですよ。それで、僕もタンバリンを買って、練習を始めました。でも、安いものを買ったせいか音があまりよくなかったこともあって、途中でやめちゃったんですよね」

当時と違うのは、練習するのに十分すぎる時間があったこと。再びタンバリンを手に取った大石さんは、生来のこだわり気質を発揮して、どんどん上達していった。

初めてタンバリンを意識するようになったのは、バンドで活動していた2008年ごろ。レブ・エルマンの演奏をYouTubeで観て、衝撃を受ける
初めてタンバリンを意識するようになったのは、バンドで活動していた2008年ごろ。レブ・エルマンの演奏をYouTubeで観て、衝撃を受ける

人生を変えたふたつの出会い

治療が功を奏し、外を出歩けるぐらいに回復すると、大石さんは静岡の浜松市にある「JALI(ジャリ)」という店を訪ねた。そこは、エジプト、トルコ発祥の打楽器で、主にベリーダンスで使用する「ダラブッカ」やレク(アラブタンバリン)などを取りそろえている、知る人ぞ知る楽器店だ。ここで、新たな道が拓ける。

「ずっとひとりで練習してて、それなりに叩けるようになったから、ちゃんとしたレクが欲しいと思って買いに行ったんです。ジャリの店主はダラブッカ奏者でベリーダンスの伴奏もしている人なんですけど、お店でレクを触っていたら、『日本でこんなに叩ける人はそんなにいないから、ベリーダンスの仕事に誘うよ』って言ってくれて」

最初は暇つぶしだったタンバリンに、次第に熱中するようになり、練習に明け暮れていたら、いつの間にか「日本でこんなに叩ける人はそんなにいない」と評価されるレベルに達していたのだ。

同時期に、世界的にも名を知られる、日本を代表するタンバリン奏者、田島隆さんとの大切な出会いも得た。田島さんのことを知ったのは、YouTube。タンバリンの動画を探しているときにたまたま見つけ、「タンバリンで、ドラムセットみたいなことをやっている」演奏に目を奪われた。

そのころ、mixiのタンバリンコミュニティにある質問を投稿したところ、詳細に回答を寄せてくれた人がいた。その人のプロフィールには名前が記されていなかったが、腰に届きそうなほど長髪の人物のシルエットが掲載されていた。YouTubeで田島さんの見た目を知っていた大石さんは、すぐに気づいた。「これは……田島さんだ!」

リアルな田島さんに会いたくなった大石さんはその後、田島さんのライブやワークショップに参加するようになった。どんな質問にも丁寧に答えてくれる姿勢、そして「若い人でタンバリンに興味持つ人がなかなかいないから、すごくうれしいです」という言葉に、それまでの音楽活動で感じたことがないような温かさを感じた。

タンバリンのポテンシャル

ちょうどこの時期、ヘルニアの治療を始めて2年が経ち、ようやく痛みから解放された。25歳になっていた大石さんは、「ジャリ」の店主に声をかけられて、ベリーダンスやアラブ古典音楽のイベント、ワークショップなどでダラブッカやタンバリンを叩くようになった。

ベリーダンス、アラブ古典音楽というとニッチなイメージがあるが、調べてみたところ、ベリーダンスだけで日本に数万人規模の人口がいるようだ。全国から約200人のダラブッカ奏者が集まる「ダルブッカナイト」というイベントも開催(2023年で11回目)されるなど、「特殊な世界だけど、コミュニティとしてはそれなりの人数がいる」と大石さんは話す。

そのコミュニティで腕を認められ、あちこちで仕事をするようになっていた2013年ごろ、ジプシールンバをメインに演奏する夫婦デュオ「iora(アイオラ)」と知り合い、一緒にライブに出るようになった。一度、大石さんの家族と親戚がそのライブを観に来たときに、「すごくいいバンドだ!」と喜ばれ、誇らしく思ったという。カフェやバーでのライブを主戦場とするアイオラとライブを始めて、大石さんはタンバリンのポテンシャルに気がついた。

「ライブハウスって借りるのにすごくお金がかかるんですよ。でも、カフェやバーのアコースティックライブだと、20人から30人ぐらいお客さんが入ればある程度の収入になります。あと、音がドラムよりも大きくないとか、スペースを取らないのもメリットですね。なんなら生音でも大丈夫だから、いいスピーカーを置いていない店でもライブができる。アコースティックの現場で、初めてプロとしてマネタイズできる気がしました」

ジャズ界のビッグネームが集うフェスの舞台へ

レクを始めた当初は、アラブ古典音楽やベリーダンス関係者からの依頼が多かった。しかし、アイオラとのコラボによって興味を持ってくれる人が増え、年を経るごとに仕事の幅が拡がっていった。大石さん自身も「けっこうなんでもいける!」と手応えを感じ、別ジャンルの音楽や歌の伴奏も積極的に関わるようになっていった。タンバリン奏者の身軽さを感じるエピソードがある。

「当時住んでた駅の路上で歌ってる人がいたんですよ。ぜんぜん知らない人なんですけど、ちょっと混ぜてくださいって話しかけて一緒に演奏してみたら、馬が合いすぎて朝までやってしまって(笑)。その人とは一時期、週3とか週5でライブやってました。いまだにやってます」

転機が訪れたのは、2018年。大石さんがFacebookにレクで演奏している動画を上げたところ、それを見た奥村将和さんというドラマーから、「習いたい」とメッセージが届いた。もちろん快諾し、後日、待ち合わせ場所に出向くと、奥村さんと一緒に女性がいた。奥村さんと「ニューオリンズピアノバンド」を組んでいる、ピアニスト、シンガーの泉沢果那さんだった。三人で話をするうちに、その場で「一緒にライブをやろう」と誘われた。

それから、泉沢さん、奥村さんとともに数多くの舞台に立った。ジャズ界のビッグネームが集う「南郷サマージャズフェスティバル2018」にも出演。気づけば、タンバリン奏者としてメシが食えるようになっていた。

こーじゅんさんからのアドバイス

翌年、もうひとつ大きな出会いがあった。音楽業界では技巧派のアコースティックギタリストとして名高い、こーじゅんさんだ。大石さんがYouTubeで見つけて、「こーじゅんさんのリズムは、レクとバッチリはまる!」と直感し、Twitter(現X)で「一緒にやったら絶対に面白いと思います」とダイレクトメッセージを送ったそう。

ドキドキしながら返信を待っていたら、ギター講師として約200人の生徒を抱えるこーじゅんさんから、「教えるのに忙しくて、ライブはやってないんです」と断りの連絡があった。ガックリきたが、意外な形で縁がつながる。ロックバンド「ストレイテナー」のギタリスト、OJさんが「こーじゅん君と一緒に飲もう」と誘ってくれたのだ。そこで意気投合したこーじゅんさんから、打ち明けられた。

「(見た目が)怖いから、関わっちゃいけない人だと思ってた」

この飲み会が契機になり、すっかり打ち解けたふたり。ある日、大石さんがライブやレッスンを中心とした自分の仕事の話をしたところ、「明らかにやり方がもったいない」と、ギャラ設定などさまざまなアドバイスを受けた。その際、「YouTubeも、ちゃんとやったほうがいい」と言われたこともあり、2020年2月から一気に投稿数を増やした。多いときには、1日に複数の動画をアップした。当時の心境を、こう振り返る。

「YouTubeのアカウント自体は持っていたけど、やる気がなくてあまり動画を撮ってなかったんですよ。でも、前から『しっかりやったほうがいい』って周りにも言われてたんで、もうやけくそで、それならもう伸びそうなことぜんぶやるわって。ネタに振り切って、見た目も奇抜にして、ふざけたタイトルにして、とにかくバズってやろうと」

YouTubeがバズる

このとき、「もう後戻りできないタンバリン奏者が〇〇してみました」というシリーズが始まり、そのなかの一本「もう後戻りできないタンバリン奏者がおジャ魔女カーニバル!!を全てを曝け出して叩きました」が盛大にバズる。現在、再生回数が396万回を超えている動画だ。

「ちょっと前に、着ぐるみのドラマーがアンパンマンマーチに合わせて激しく叩く動画がバズったんですよ。それを思い出して、もう後戻りできないシリーズを作りました。おジャ魔女カーニバルは、カラオケに行ったときに友だちが歌っていて、遊びやすいと思ったんですよね。それで、どうせならヘドバン(ヘッドバンギング/頭を激しく振る動作)をして、叫びも入れようと思いました」

大石さんが「おジャ魔女カーニバル」の動画をアップしたのは、2020年2月16日。そう、新型コロナウイルスのパンデミックで、日本がパニックに陥る直前だ。この動画でチャネル登録者数が飛躍的に増えた大石さんはコロナ禍、もう後戻りできないシリーズを中心に動画をアップし続けた。その動画が数万回、数十万回、時に100万回を超える再生を記録したことで、大石さんはSNSで名乗っている「ガチタンバリン奏者」として名を知られるようになる。

さらに同時期、報道ステーションのオープニングテーマ曲の作曲を請け負ったこーじゅんさんからの誘いで、4代目テーマ曲『Brave(ブレイブ)』の収録に参加。プロのタンバリン奏者として記念すべき大きな仕事を経験したことで、ミュージシャンとしての仕事の依頼も増えた。

「『荒野行動』などのゲーム音楽を作っているKay Productionの代表の河原嶺旭さんから『ファンです』とDMをもらったのがきっかけで、ある仕事をもらいました。その仕事で使ったスタジオの別の部屋で、アニメ映画『劇場版NARUTO-ナルト』とかの音楽を担当している作曲家の高梨康治さんがたまたまレコーディングしていたんですよ。そこであいさつをしたら、いきなりその日の録音に参加させてもらえることになって。それから、劇伴(映画のなかで使われる音楽)の依頼も来るようになりましたね」

YouTube動画「もう後戻りできないタンバリン奏者がおジャ魔女カーニバル!!を全てを曝け出して叩きました」は394万回を超える再生回数に
YouTube動画「もう後戻りできないタンバリン奏者がおジャ魔女カーニバル!!を全てを曝け出して叩きました」は394万回を超える再生回数に

タンバリンが拓いた未来

流れに乗る、勢いづくとはこういうことだろう。ひとつの出会いが別の出会いを呼び込み、映画『コンフィデンスマン JP 英雄編』やアニメ『異世界おじさん』の劇伴にも加わった。2021年2月には、NHKの番組『天才てれびくんhello』にも出演している。

「子どものころからテレビを観てたんで、依頼のメールを見たときは、正直、おれでいいのかって思いましたね。でも、そのメールに『髪の毛を切ったりはしてないですよね』って書かれてて、ああ、このままでいんだって(笑)」

今や、ユーチューバーやティックトッカーと絡んで動画を配信しながら、依頼を受けた仕事も請けつつ、ライブに出るという独自の立ち位置を築いた大石さん。これからどうなりたいですか?と尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「定期的に動くバンドをもっと増やしたいですね。バンドに出演依頼がきたり、ユニットでレコーディングを頼まれるような感じで」

「もっと演奏したい」という想いに駆られ、実は最近、再び都内に引っ越した。

「三味線奏者のしゃみおさん、チェロ奏者で作編曲家のヌビアさんと組んで動画を撮ると必ず伸びるんですよ。ふたりに、東京にいたらもっといろいろできるのにと言われたので、ふたりが住んでいる東京に出てこようと思って」

ほかにも魅力的なコラボがいくつも控えているそうで、「ブルーノートにも出られるように頑張っていきたい」と語る。

このインタビューの際、「ニューオリンズピアノバンド」で一緒に組んでいたドラマー、奥村さんから言われたという言葉を教えてくれた。

まだ動画で有名になる前、大石さんは「タンバリンで有名な人の伴奏をどんどんするようになって、上に上がってくんだ」と考えていた。奥村さんのイベントに出たときにその話をしたところ、「それだと印象に残らんのだよ。りゅうちゃんは、表に立つ人になったほうがいい」と言われた。

そのときは全くピンと来なくて、「なに言ってんだ?」と不思議に思ったという。でも、奥村さんの言葉が胸の奥にずっと残っていたそうだ。

奥村さんが言うように、「表に立つ」存在になった大石さん。その傍らにはいつも、「年間350日は持ち歩く」というタンバリンがある。

大石さんの傍らにはいつも、「年間350日は持ち歩く」というタンバリンがある
大石さんの傍らにはいつも、「年間350日は持ち歩く」というタンバリンがある


取材・文・撮影=川内イオ