大阪府でベーカリーを中心とした飲食店「クックハウス」とサンドイッチ専門店「ダイヤ製パン」を展開する、株式会社ダイヤ。1946年の創業以来、地元・大阪に根ざした企業として、学校教育支援や教科書への取材協力といった地域貢献を積極的に行っている。そんな同社の3代目代表取締役社長・多田俊介さんは、IT企業で勤務していたキャリアを持つが、どのようにして社長就任にいたったのか。また、創業77周年を迎えた同社の歩みや多田さんが掲げる企業理念について話を聞いた。

株式会社ダイヤ 代表取締役社長・多田俊介さん
株式会社ダイヤ 代表取締役社長・多田俊介さん【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


社長に就任したきっかけは、ライフスタイルの変化

ーーまずは、3代目社長に就任された経緯についてお聞かせください。
【多田俊介】実は、社長に就任するつもりはありませんでした。高校生のときからPCが好きで、大学も情報関連の学部に進学しました。父親からも「大阪を出て勉強してきなさい」と言われていましたので、IT企業を目指し就職活動を開始。無事に内定をいただいて、配属されたのは宮城県仙台市でした。縁もゆかりもない土地でしたが、海・山・川が近くて、冬になると車で1時間ほどでスキー、スノーボードができる環境でして、とても魅力を感じていました。

【多田俊介】しかし、仙台で結婚して生活にも満足していた矢先、2011年3月11日に東日本大震災が発生しました。津波の影響で、電柱や電線などの復旧作業が最優先事項。電力会社からの仕事が多い部署だった私を含め、多くの社員が仙台事業所を離れることになりました。上司からは、転勤先として東京・名古屋・大阪のいずれかを選択するように言われましたが、東京と名古屋には知人がいなかったので、2011年8月、8年ぶりに大阪に戻りました。

【多田俊介】その後、2013年6月まで大阪事業所で働いていましたが、労働環境は厳しく、日付が変わるまでの勤務が当たり前でした。この働き方を続けると家族と過ごす時間がなくなると思い、これを機に大阪でしっかりと生活を立て直すことを決意して弊社に入社しました。

今でも仙台で働いていたときのことを夢で見るそう
今でも仙台で働いていたときのことを夢で見るそう【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


ーーITとベーカリー、全く異なる業種かと思いますが、ギャップはなかったですか?
【多田俊介】驚いたのは、みんなが18時に退社することでした。初めは「こんなに早く帰っていいの?」と戸惑いましたが、同時に弊社は、ワークライフバランスを重視している会社だと実感したんです。一方で、入社して店舗や工場、事務所を見て回るうちに、働いている人たちの大変さを目の当たりにする機会も多くありました。

【多田俊介】そこで、まずタイムカードの問題に着目し、「勤怠管理システム」を導入。しかし、PCに慣れていない人が多く、Excelを使うことに抵抗感を持つ従業員もいました。なので「これで仕事が楽になるよ」と説得しながら、徐々に導入店舗を増やしていきましたね。給与計算が自動化されたことで、紙のタイムカードへの計算ミスの心配がなくなりましたし、従業員も自分の働いた時間が正確に計算されていることに満足していました。現在では、すべての部署にシステムを導入することができました。もちろんコストがかかりますが、従業員が少しでも喜ぶのであれば何よりだと思っています。

ーー在庫の管理はどのようにされているのでしょうか?
【多田俊介】材料の数と価格の把握が難しく、納品書も手書きだったため、確認が正確に行われているのか疑問でした。誤って他社さんに送信してしまうこともありましたからね。逆に、他社の伝票が弊社に送られることもありましたけど(苦笑)。そこで当時、飲食業界でシェア率が高かった「インフォマート」を取り入れました。勤怠管理システムと同じく、慣れていない人が多かったので対応には頭を悩ませましたが、今ではほぼ100%導入できています。

前職の知見を生かして業務効率化に成功
前職の知見を生かして業務効率化に成功【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


創業77周年。毎日食べられる商品づくりがモットー

ーー創業77周年ということで、貴社のこれまでの歩みについてお聞かせください。
【多田俊介】創業者であり、私の祖父である多田定男は、鶴橋のミルクホールで和菓子職人として過ごしていたそうです。戦後、大阪は焼け野原で、人々は食べ物に困っている状況でした。そのころ、進駐軍から小麦粉の支援が始まった時期であり、彼はこれを利用して何か作れないかと考え、未経験だったパン作りを始めることになります。

当時の大阪市・生野区には、10社ほどのパン製造業者が存在しており、彼らはあとから参入した多田定男氏を温かく迎え入れたという
当時の大阪市・生野区には、10社ほどのパン製造業者が存在しており、彼らはあとから参入した多田定男氏を温かく迎え入れたという【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


【多田俊介】近所の2つの小学校にパンを提供することから始まりました。当時の小学生にとって学校給食のパンはあまりおいしいものではありませんでした。なぜなら、指定されたレシピと、提供された材料でしかパンを作ることが許されていなかったからです。

【多田俊介】それでも彼は、お昼休み直前に焼きたてのパンを持って行くようにするなどして、少しでも改善しようと試みました。こうした工夫は、小学生たちからはとても喜ばれたそうですが、その傍ら直営店のパンが焼きたてではなくなってしまう問題がありました。このままだと店舗の評判を落とすことになると判断した彼は、学校給食の部門を他社に一任し、自分たちが本当においしいと思えるパンを作り続けることに専念しました。

【多田俊介】その後、梅田で初めて地下街への出店という形で店を出す際に、保証金が現在の価値にして1億円以上もかかるという条件のなか、まさに一世一代の勝負に出ました。もし自分が当代でその判断ができたかと言われると、正直わからないですね。そんな状態のなか、見事成功しまして、その後、阪急三番街や難波に地下街ができるタイミングで出店したことで、事業拡大につながりまりました。こうして振り返ってみると、弊社の売り上げの拡大には3つのポイントがあったと思います。1つは、地下街への出店、2つ目は駅構内への出店、そして3つ目は、2013年からスタートした百貨店への出店ですね。

ーー続いて、クックハウスの特徴やこだわりについて教えてください。
【多田俊介】フランスの伝統的な作り方をしているパン屋さんもありますが、弊社のクックハウスは、“毎日食べていただけるような商品”を作っています。だからこそ飽きが来ることなく、77年と長きにわたり愛され続けているのだと思っています。また、弊社のパン職人たちには師匠がいなくて、お客さまからのお声をヒントに日々ブラッシュアップしています。商品のアイデアも「こういうパン作れへん?」といったお客さまのお声をもとに企画会議を行い、新商品として発売しています。

クックハウスで1番人気の「ミルクパン」。カスタードクリームを何層にも折り込んだひと口サイズのパンは、クセになること間違いなしだ
クックハウスで1番人気の「ミルクパン」。カスタードクリームを何層にも折り込んだひと口サイズのパンは、クセになること間違いなしだ【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


【多田俊介】また、味付けについては、濃厚すぎると日常的に食べ続けることが難しくなります。例えば、高級食パンを買い求める人は、半年に1回程度の訪問が多いので、そのためにはインパクトのある味付けが求められるかもしれません。しかし、我々が目指すのは“毎日食べられるパン”なので、適度な味付けを心がけています。「お客さまのニーズと日常に寄り添う商品開発」、それがクックハウスのこだわりと特徴ですね。

ミルクパンと肩を並べる人気商品「デイリーブレッド」。しっとりとした優しい旨みは、その名のとおり毎日食べたくなる
ミルクパンと肩を並べる人気商品「デイリーブレッド」。しっとりとした優しい旨みは、その名のとおり毎日食べたくなる【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】

「左奥:欧風カレーパン、右奥:ショコラメロンパン、手前:フランク」
「左奥:欧風カレーパン、右奥:ショコラメロンパン、手前:フランク」【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


コロナや物価上昇で苦戦...。そんななかでもみんなが共存できる方法を模索

ーーコロナ禍では、どのような影響を受けましたか?
2020年の5月、6月でしたでしょうか。5店舗を一時閉鎖しました。その他の店舗も時短営業になり、それに伴い売り上げも前年同期比で約60%にまで落ち込んでしまいました。弊社は日常のパン作りということもあってか、得られる利益率はそれほど高くなく、昨対比ベースで10%もの減少があると、すぐに赤字に転落する危うい状況でした。

ーー当時どれくらいの影響が出るのか想像がつかなかったですよね...。
【多田俊介】ただ、社員の給与補償について、ひとつ決めていることがありました。法的には60%までが認められているのですが、社長(現・会長)と相談し、絶対に100%補償するという決意を固めました。結果として、徐々に店舗の休業解除が進み、売り上げも一部戻ってきたのですが、その時期はなかなか厳しかったですね。

【多田俊介】そして2020年7月、私が社長に就任したころ、近々ワクチンが出るというニュースがあり、コロナは1年程度で収束するのではないかという、楽観的な見方をしていました。「あと少し耐えればなんとかなるだろう」という思いを胸に、全額補償するから安心してほしいと伝えながらも、お金がなくなっていく現実に、正直心は疲弊しきっていました。しかしながら、2023年4月末決算で、ありがたいことに利業利益がプラスとなりました。

コロナ禍で経営が苦しかった時期も、常に社員・従業員のことを最優先に考えた
コロナ禍で経営が苦しかった時期も、常に社員・従業員のことを最優先に考えた【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


ーー苦しい話ばかりお聞きして申し訳ありませんが、今も原価はどんどん高くなっていますよね。
【多田俊介】2021年1月に、コロナ対策として立てた計画に基づき、原価上昇に対応する方法を考え、まず80種類あったパンを60種類に減らし、使う材料も限定しました。なかには弊社店舗のオリジナル商品もありましたので、それらを省くことでお客さまには残念な思いをさせることになってしまいました。生き残るための苦渋の選択でしたね...。

【多田俊介】また、コロナ禍から価格改定を年に3回から4回ほど行っています。基本的に私たちは取引先に対して価格交渉をしたくはないので、原価の上昇分を商品の販売価格に反映させ、みんなが共存できる方法を選択しました。しかし、ウクライナの件があってから300円を超える商品が途端に売れなくなりまして、お客さまも厳しい状況なんだと肌で感じましたね。そのため、お客さまの生活の負担を減らすために、高くても200円代後半になるようにレシピを調整する方針です。

ーー次に未来の話を聞かせてください。2025年に大阪・関西万博が開催されますが、何か企画されていることはありますか?
【多田俊介】2022年から始まった万博向けのお土産商品開発ですね。このプロジェクトについて、偶然、知る機会がありまして、大阪府立環境農林水産総合研究所さんと一緒に、大阪名産のいちじくを使った商品を開発することになりました。自家製のバターやチョコレート、クリームにいちじくの粉末を練りこんだものをクッキーでサンドする商品でして、ある程度、形になってきました。大阪・関西万博らしいデザインをあしらったものになっていて、早くて2024年の春くらいには完成する見込みです。

ーー売り上げ拡大の4つ目のポイントになるかもしれないですね。
【多田俊介】そうですね。弊社はこれまで、直営店舗での販売を主軸としておりましたので、今回のようなお土産商品を作るのは初めてですが、自分たちの商品がお土産売り場に並ぶことを夢見て、日々楽しみながら開発に努めています。また、あまり楽観はしていないのですが、インバウンド需要が戻りつつあります。ここから少しずつ売り上げを伸ばして、従業員に還元していきたいですね。

お客様だけでなく、かかわる人全員が幸せに!

ーーあらためて、3代目になられてここまでを振り返り、思うことはありますか?
【多田俊介】会社の舵取り役になりましたが、パン製造や販売のプロになろうとは思っていないんです。入社時点で既にスペシャリストがいましたので、自分が製造のプロになり工場長のようなポジションになると、みんなが仕事を楽しめないなと思ったんです。だから“あえて素人の立場でいる”ことにしました。当初はパンについて勉強しましたが、それも途中でやめましたね。パン製造に関するいろいろな資格があるなかで、それらを取得せず、初心者として製造部門に「どうしたらいいパンが作れるのか」、販売部門には「どうしたらパンがよく売れるのか」と、私から相談するスタンスを持ち続けていくつもりです。

利益よりも、社員の満足度や幸せを優先したいと語る多田さん。こうした想いを強めたのはある出来事がきっかけだった...
利益よりも、社員の満足度や幸せを優先したいと語る多田さん。こうした想いを強めたのはある出来事がきっかけだった...【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


ーーほかにリーダーとして大切にしていることはありますか?
【多田俊介】社員の幸せですね。とにかくコロナ禍で痛切に感じたのは、コロナ禍で昇給させてあげられないですし、ボーナスも上げられないことでした。従業員が幸せになる要素は何なのかと今も模索し続けているのですが、そのなかで「幸せ経営」や「ウェルビーイング」という理念に出合いました。

【多田俊介】2023年から、大阪・生野区の中学校でパンの商品開発の授業を担当させていただいていまして、その際、弊社のスタッフや子どもたちの楽しげな姿を見たり、発売日に親御さんたちが新商品の写真を撮ったりする様子を見て、社会とのつながりが幸せに寄与することを強く感じました。企業の価値は、決算書の利益で評価されますが、それよりも従業員の満足度や幸せが重要だと考えています。数値で表すのは難しいですが、“幸せ利益”とでも言いますか。まだ、体系化はできていませんが、これらを大切にしたいと思っています。

ーーどうして、そんなに徳を積む生き方ができるんですか?
【多田俊介】東日本大震災が発生したとき、私は仙台市の若林区に住んでいました。津波の影響はなかったですが、海辺の方向が赤く燃え上がっているのを目の当たりにしたんです。そこから2〜3日して新聞が届き、海岸線が信じられない状態になっていることを知りました。私は妻の実家に泊まっていましたので、食べ物はありましたし、北海道事業所と大阪事業所の人が、ボランティアでトラックを借り、食料を運んで来てくれたおかげもあり、なんとか生きていけました。

【多田俊介】ですが、私だけがこんなに安全な場所で生活していいのかという罪悪感が胸を締めつけました。そんななか、毎週のように行っていた海岸線でのボランティア活動が、私にとって大きな心の支えとなりました。あのときの感情はとても鮮明に覚えていて、今でも泣きそうになりますね。そういった経験もあってか、何かに貢献することにより価値を感じるようになりました。もともと、好きな車に乗りたいとか、そういった欲が少ないのもあるかもしれませんが。

ーーそんな欲がないという多田さんが掲げる、今後の野望を教えてください。
【多田俊介】はい(笑)。2021年9月、弊社は初めて商工中金の「幸せデザインサーベイ」という、社員満足度調査を実施しました。コロナによる混乱が続いていたころ、社員の状態を把握するために始めたんですが、少し意外なことに、みんなが“地元のパン屋”であることに強い誇りを持っていることがわかりました。私は、このクックハウスをもっと都市部に進出させたい、名前を売りたいなど、全国展開を目指している社員が多いと思っていましたが、全く違ったんです。

これからも大阪に根ざした企業として、教育や産業、文化の発展に貢献していきたいと話してくれた多田さん
これからも大阪に根ざした企業として、教育や産業、文化の発展に貢献していきたいと話してくれた多田さん【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】

「パン de しあわせ」のコンセプトを従業員全員に共有したいという思いで、2022年4月に初めて経営理念を作成
「パン de しあわせ」のコンセプトを従業員全員に共有したいという思いで、2022年4月に初めて経営理念を作成【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】

チャレンジ精神にあふれたアクションプランだ
チャレンジ精神にあふれたアクションプランだ【撮影=福羅広幸(兄弟エレキ) 】


【多田俊介】そんな彼らの自負に触れて、2022年4月に初めて中期経営計画を作成しました。そのなかに、私の書いた経営理念を掲げています。弊社のコンセプトでもある「パン de しあわせ」をモットーに、大阪に深く根ざした企業として、お客さまだけでなく、取引先・生産者・社員、そして子どもたちまで、すべての人が平等に幸せになることを目指しています。みなさんとは、これからも一緒に楽しく仕事がしたいですからね。

この記事のひときわ#やくにたつ
・地域に密着して、毎日食べてもらえる商品づくりを心がける
・あえて素人であることを大切にしてメンバーがのびのびと働ける職場をつくる
・利益よりも、従業員の満足度や幸せを最優先にする
・地域に深く根ざした企業として、関わる人全員が幸せになることを目指す

取材=浅野祐介、文=西脇章太(にげば企画)、撮影=福羅広幸(兄弟エレキ)