ハロー!プロジェクト楽曲やテレビアニメ主題歌の作詞家として知られる児玉雨子氏。2023年、芥川龍之介賞候補作にノミネートされるなど小説家としても注目される彼女が、独自の視点で江戸文芸の世界を大胆に読み解く書籍が『江戸POP道中文字栗毛』です。編集を繰り返す松尾芭蕉の俳諧、流行語連発の『金々先生栄花夢』、江戸時代の銭湯スタイルを実況する『諢話浮世風呂』など、様々な文学作品から当時の流行りや生活を紹介、現代の感覚との共通点を指摘していきます。触れる機会が少なく、近寄りがたいと思ってしまいがちな江戸の近世文学を、現代ポップスやカルチャーにもなぞらえているので、世界眼を想像しやすく、気楽に楽しむことができます。『江戸POP道中文字栗毛』から、江戸時代の文芸や文化を垣間見てみませんか?
※本記事は児玉 雨子 著の書籍『江戸POP道中文字栗毛』(集英社)から一部抜粋・編集しました。
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湯の中の世の中(1)
──式亭三馬『浮世風呂』にみる他者との距離①



男のサウナブームはマウンティング?
コロナ禍以前より、ここ数年はサウナブームで「ととのう」感覚の素晴らしさが説かれる機会も少なくない。
以前、雑誌である男性歌手と対談した際、そのひとは男性を中心としたサウナブームについてこう解釈していた。

多くの男性は「お茶」をしない。
その代わりにサウナだったり飲み会だったり、理性の箍たがが外れる状況でコミュニケーションをとろうとする。
むしろ、発汗や酩酊で身体を追い込まないと腹を割って話すことができない。
そう簡単に強くない自分をさらけ出せない「有害な男らしさ」で自縛している。
さらに、サウナはひとりで楽しめるだけではなく、温度や湿度などの知識や、ととのう感覚をわかっているかどうかのマウンティングも可能だ。
だからサウナはマスキュリンな男性にとって都合がいい場所なのかもしれない。そう語っていたのだ。

ひじょうに鋭い指摘だと私は膝を打った。
そしてこれを前向きに捉え直せば、サウナは単なるリラクゼーションだけでなく、コミュニティ醸成の場でもあるとも言えるだろう。
マウンティングはコミュニティがなければ、そもそも発生し得ないものだから。

定点カメラで銭湯の様子を実況
今回紹介するのは、式亭三馬の滑稽本『諢語(おどけばなし)浮世風呂』(1809・文化六~1813・文化十年)だ。

本作は「前編」「二編」「三編」「四編」の構成である。
最初からこの構成で書く予定ではなく、はじめは男湯のみを描写した前編を出版して評判もよかったものの、前編の版木(印刷するための板)が書店の火事で焼失し、読者からの要望で前編に書き足す形で女湯を題材とした二編を出版。
書店が利益を求めて続編を三馬に打診し(*1)、二編では書き漏れた女湯についての内容を三編として、さらに書店は初編だけになっていた男湯の話を書くように三馬にかなり強く求めて、四編が書かれた。
三馬の創作欲が溢れてテクストが展開していったのではなく、火事というどうにもならない状況や、まるで現代の人気漫画の連載引き延ばしみたいな理由で長編化した作品だ。
今回は男湯について書かれている前編と四編について紹介したい。

本作の特徴は「糞リアリズム」と称されるように(*2)、銭湯に出入りするひとびとの会話が中心で、物語の筋やドラマチックなオチも乏しく、また「文学」として作品を貫くテーマも明確ではない。
定点カメラで銭湯の様子をおもしろおかしく実況しているような娯楽作品、と評価されている。

【注釈】
(*1)当時の書店は「書肆」や「書林」などと呼び、小売だけでなく編集や製本まで行い、現代でいう出版社の役割も担っていた。三馬に依頼した書店員は、現在の編集者のような立ち位置。
(*2)土屋信一「『浮世風呂』に見る子ども達の世界」(『新日本古典文学大系86』付録月報6、一九八九年六月)