【漫画】本編を読む
今回は、同書から印象的なエピソードを抜粋・編集し、作者である近藤丸さんのインタビューとともにお届けする。
仏教の教えに救われた「ヤンキー」の過去が明かされる








基本的に「命」を「価値」というモノサシで見ないということを、仏教は教えていると思うんですね。「命を平等に見る」というのは、仏さまの見方なんです。私たちの普段の見方からは、このような視線は出てきません。何でも価値や意味を付けてしまっているのが、私たちのものの見方です。しかし、その見方が痛ましいと言っているのが、仏教の教えだと思います。何でも意味と価値で測っていく見方自体に、何か問題性はないかと教えられます。
私たちは人と比べて自分が劣っていると感じると、「こんな自分は価値がない」と思ってしまう。しかし、そんなことを言っている間に、この命は終わるかもしれない。今日死ぬかもしれない命を生きています。このような厳粛な命の事実から見れば、今ここに生きているという事実があるだけです。その生きていることの価値を、価値づけしてモノサシで測ることは、ずっと生きているつもりの私たちから出る、ある意味で『おごった考え方』ではないでしょうか。
「さとりの国の池にはとても立派な蓮の華が咲いている。青色の蓮華れんげは青い光、黄色の蓮華は黄色い光、赤色の蓮華は赤い光、白色の蓮華は白い色の光を放っている。一輪一輪ちがっており、それらはどれもそのまま香り高く何とも美しく素晴らしい。さとりの国はそのような徳の高い、言葉を超えた素晴らしさで満ちあふれている」(『阿弥陀経』より意訳)
ブッダ(仏)の眼は、慈しみの眼・平等の眼。その眼で見ればどんな命もそれぞれに光り輝く平等なもので、それぞれに光り輝いているということです。私たちは縁によっては今日・明日亡くなるかもしれない命を生きています。縁によって長生きする人もいれば、赤ちゃんのときに亡くなる人もいる。そして、それは縁でしかない。長く生きたから価値がある・短かったら価値がないというのは人間の見方です。
もちろん、どんな命も必死に「生きよう、生きよう」としている。ですから、できるだけ長く生きることを願うのは当たり前ですし、誰もが生き生きと生きていける社会を目指すべきです。そのことを否定するものではありません。しかし、縁によって生きている命の事実を見つめるとき、「短いから価値が無かった…」としない見方が、仏教の中で語られてきました。
「阿弥陀如来」という仏さまの誓い




自分の力ではどうしても修行したり、よい行いを積み重ねたりすることができない人(私)がいるから、このような誓いを立てたのです。自分の力で悟れない人を救わずにいられないというのが、阿弥陀如来のお心なのです。浄土真宗の文脈では、「悪を作るつもりが無くても、悪を犯さざるを得ないのが人間である」というのです。善をしようと思っていても、思うままに善ができないものも悪人ですね。私たちは日々、悪を作っている自覚はないと思います。しかし、何気なく生活をしている中で環境を破壊しているという事実がある。毎日、鳥や豚や牛や魚やいろいろな命を頂いて生きている。そうしなければ生きていけないですし、時にはそれが当たり前となり感謝の心すら無くしているのが、私たちの生活のありようです。
仏教では人間の存在を、深く見つめています。状況によって何をするかわからなかったり、悲しいことがあってもすぐに忘れてしまったりする私たちの在り方には、深い意味での悪が含まれているというのです。そういう視点からすると、「悪いことしても救ってくれるからOK」というのは、浅い人間観から発せられた言葉ではないでしょうか。






浄土真宗の教えでは、私たちに求められているのは念仏し、仏さまの教えを聞いていくことだけです。生き方は救いの条件にはならないのです。だけど、どんなあなたでも救うと言われたとき、私たちは今のままでいいと開き直る訳ではないのだと思います。誰をも救いたいと願いを立てた仏さまの想いに触れたとき、自分の生き方が問われることが始まる。浄土真宗ではだからこそ教えを聞き続けて、自分の生き方を見つめ直すことが大切だと言われるのです。
また浄土真宗の場合、仏さまの慈悲を信じることが大切だといわれます。しかし、人間が大いなる慈悲を信じることがどうしてできるかと言うと、大きな慈悲自身が人間に働き、人間の心を転換するからだとされます。自分からそんな慈悲を信じるなんて、できないんだと。なぜなら私たちは、本当の意味で真実を見通す力がないからです。どうしても自己中心的な見方をしてしまい、仏さまの慈悲を信じることができない。しかし、そんな自分の思いを破り大切なことに気づかせる力が、大きな慈悲として働いているのだと考えます。すると自分は愚かであったとわかってくると同時に、ずっと自分を助けようと働いていた仏さまの大きな慈悲があったことも知らされる。こういう論理が浄土真宗の教えの中にあるのです。
