オフィスチェアーだけど“楽しい”?360°座面が動く「ing」、ターゲットをあえて決めない開発でイノベーション

東京ウォーカー(全国版)

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今までにない感覚で、ついつい体を動かしたくなる。「ing(イング)」は座面が360度どの方向にも自由に動くオフィスチェアー。ユーザーからは「疲れにくい」「集中できる」といった声が寄せられている。手がけるのは、文具・オフィス家具メーカーのコクヨ。斬新なアイデアはどのように生まれたのか、同社ワークプレイス事業本部ものづくり開発本部の木下洋二郎さんに話を聞いた。

コクヨ株式会社ワークプレイス事業本部ものづくり開発本部の木下洋二郎さん【撮影=山本晴菜】


人を動かすカギは「楽しさ」

パソコンに向かって前傾姿勢になったり、背もたれに体を預けて後傾姿勢になったりするとき、体の動きに追随して座面も動く。バランスボールに近い感覚で、自然と心地よい姿勢に整えられ、通常のイスに比べて消費カロリーも上がるという。

【写真】「ing」イメージ図【画像提供=コクヨ株式会社】


長時間同じ姿勢でいることが疲れにつながるため、オフィスチェアーを作るうえで「動くことは大切」という考えは以前からあった。それまでのオフィスチェアーも、ある程度体を動かせるように作られてはいたが、「もっと体を自由に動かせるイス」を開発しようと考え始めたのが2010年ごろのこと。また、オフィスチェアーには調節機能などが備わっていたが、ユーザーがそれらの機能を十分に使いこなせていないという課題もあった。「『このレバーは何だろう』みたいなことがけっこうある。だから調節をしなくても、座るだけでジャストフィットするようなイスにできないかとずっと模索していました」と木下さん。

これまでのオフィスチェアーでも体にフィットさせるための機能はあったが、「ing」では座るだけで自然と姿勢が整うという【撮影=山本晴菜】


その後、横揺れするイスを作ったり、360度揺らしてみたらどうかという話も出ていたが、模索する期間が長く続いた。「ing」の誕生に向けて大きく動き出したのは、デザインと技術が融合する部門「革新センター」ができた2014年。そのなかで自由に試作をして、手を動かしながら考えようという動きが出た。

「技術とデザインが一体になることで、いろいろなバリエーションのものを作ることができました。『揺れたらなんかいいよね』っていうことで作ったのが『起き上がりこぼし』のようなスツールです。複雑なメカを使わないシンプルなもので、“モノ的”なイノベーションや価値はあまり高くないということで、その辺に放っていたんです。そしたら、そのスツールに座って楽しそうに揺れて遊んでいる社員たちを偶然見かけて、そのときに『あ、これおもしろいかも』と思いました。動ける仕組みになっていてもなかなか動いてもらえないという現状に対して、構造がシンプルでも楽しかったら体は勝手に動くんだと気づきました」

「ing」ヘッドレスト付きタイプ【画像提供=コクヨ株式会社】


そうして誕生したのが「ing」に使われる「ブランコ」を2層に組み合わせたような構造だ。ブランコのように、重力によって揺れると戻ってくる動きを利用。前後と左右の2方向の動きを組み合わせることで、360度の揺れを実現した。バネを使わず重力を利用しているため独特の浮遊感がある。

「仕事中はずっと揺れているわけにもいきませんが、ショールームではお客さんがすごく楽しそうに座ってくれるのを目にします。開発途中では姿勢や疲れにくさ、仕事のしやすさなどを行ったり来たりしながら考えていて、楽しさを最優先にやっているわけではありませんでしたが、『楽しかったら体を動かすよね』という最初の意思がずっと残っているのだとあらためて思いました」

ターゲットを決めない商品開発

「ing」は同社の通常の商品とは違うプロセスで開発された。通常はマーケティングをしてターゲットや空間を決めてから、企画・ものづくりを進めるのに対し、「ing」ではターゲットをあえて決めず「どういう姿勢がいいのか」という本質的な問いをまず投げかけた。

「“この人たちに”というのを外す、つまり今までとは違う市場を作らなければ、今までになかった価値はなかなか生まれません。『ing』は最初にゴール設定をせずに、試作をして検証を繰り返しながらやっていくというプロセスで開発しました」

「つながらなかった情報が、ある角度から見たときにつながるのがおもしろいアイデア」と木下さん。「その視点は必死に頑張ってもなかなか見つけられない。別のことをやっていたり、ふとした瞬間にひらめくことがある」【撮影=山本晴菜】


「新しいアイデアを出すコツは?」と尋ねると、「アイデアが出るまでやること」と木下さん。「通常1年サイクルで開発していますが、『ing』はトータル7、8年かかっています。だからコツというと、時間をかけることでしょうか。思いつくまで考えるんです。でも、おもしろいものはできるかもしれませんが、不確実ではあります。すべての商品をこのプロセスで開発してしまうと、会社が存続できるかどうか、という話になりかねません。しっかり商品を作っていくには、確実なプロセスも重要ですし、それによって生まれる商品のほうがボリュームは圧倒的に多いですね」

「どういう姿勢がいいのか」という問いから始まった「ing」の利用シーンは、オフィスだけにとどまらない。

コロナ禍になり在宅勤務が広がったことをきっかけに、同社はオンラインショップを立ち上げた。オフィス向けに開発した「ing」が個人ユーザーからの評価が高かったこともあり、自宅向けワーキングチェアー「ingLIFE(イングライフ)」を2021年に発売した。

「ingLIFE」【撮影=山本晴菜】


360度どの方向にも揺れるのは「ing」と同じだが、よりゆっくりとした動きで、自宅でリラックスして過ごすのに向いているという。あぐらをかいて座ることなども想定し、好きな姿勢で座れるように座面の幅は広めにした。

これまでの商品は、オフィスで使うことを想定したデザインだったため、「ingLIFE」は実際に社員の家に持ち込んで検証した。それによって大きく変わったのは、脚のバリエーションだ。

「ingLIFE」キャスターのない4本脚タイプ【画像提供=コクヨ株式会社】


「仕事中はいいのですが、ダイニングで食事のときにキャスター付きのチェアーというのは違和感があると思うんです。そこでキャスターなしの脚も作ると、特に子どものいる家庭では『すごくよかった』と言われました。子どもはやっぱりキャスター付きだと喜んで暴走してしまうんですよね。だからキャスターがないと安心できるようです」

「ingLIFE」キャスターの付いた5本脚タイプ【画像提供=コクヨ株式会社】


また「ingLIFE」はカラーにもこだわった。コンセプトは「インテリアグリーンみたいな存在」。なじむけれどアクセントにもなる、レンガのような赤色や、落ち着いた緑色などもラインナップに入れた。

利用シーンを広げ「進化の負の部分」をサポート

「アイデア考えるのによさそう」とクリエイティブな仕事をする人からの評価も高い「ing」シリーズ。ミュージシャンの矢野顕子さんは演奏するときにも「ingLIFE」を使っているという。

「ピアノのイスは動かないので体に負担がかかります。みなさん動かない状態で練習をされているので、それに慣れていると思うのですが、たとえば体でリズムを取るときにイスが動きについてきてくれるといいと思うんですよね。矢野さんは、横隔膜が動かしやすくなり声が出しやすくなった、と言っていました。たしかに理屈は通っていて、横隔膜を上下に動かすことで肺が膨らんだり縮んだりします。「ing」なら自然と胸を開いた姿勢で座ることができ、横隔膜をしっかり動かすことができる。どういう姿勢が人の体にいいのかを基点としているので、いろいろなシーンで転用が利くのではないでしょうか」

コロナ禍では在宅勤務が広がり、腰痛や肩こりに悩む人が増えた。オフィスチェアーの価値が見直され「やっとわかってもらえた」と感じたという【撮影=山本晴菜】


「ing」の始まりは、負担の少ない姿勢の実現や、健康的に働くということだった。その結果、仕事に集中できたり、クリエイティビティを発揮できたり、さらに仕事を効率よくこなすことで、仕事以外の時間の充実につながるのではないかとも考える。

木下さんにとってイスの開発は、「人類の進化の歴史の“負の部分”をどうサポートするか」だという。

「世の中では、ベッドの上で1日8時間近く過ごすからと、枕やマットレス選びが大事だと言われていますよね。イスも同じぐらいの時間、しかも意識がある状態で使っています。人間の骨格は二足歩行するために進化しているので、座るとどこかに必ず負荷がかかってしまう。その負担をどうすれば少なくできるのか、分散させられるのか、というのがイスが担う役割であり、ひとつの大きなテーマ。利用シーンをもっと広げて、座りっぱなしの仕事をしている人や、座ることに課題を持っている人、もっとクリエイティビティを発揮したい人たちを支えていきたいと思います」

この記事のひときわ #やくにたつ
・出発点が本質的なほど、あらゆるシーンで転用できる
・開発のプロセスを変えることがイノベーションにつながる
・アイデアを思いつくまで、とことん考え抜く

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