「世界の獺祭」と呼ばれる銘酒はかつては売れない酒だった!?獺祭ブランド誕生から世界に飛躍するまでの軌跡

東京ウォーカー(全国版)

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今や世界に名をとどろかせるDassai(獺祭)。それほどまでに有名な銘酒であれば、きっと巨大な酒蔵で作られているのだろうと思い訪ねてみると、そこには山奥にひっそりと佇む小さな酒蔵がポツンとあった。「獺祭」を製造する「旭酒造」は、山口県岩国市の山奥・清洌な渓流沿いで獺祭の味を守り、獺祭ブランドを磨き上げていた。

旭酒造4代目蔵元・桜井一宏さんに、獺祭が歩んできた道について聞いてみた【撮影=川崎賢大】


これまで前代未聞の「杜氏制度の廃止」「磨き二割三分」と、日本酒業界に革命を起こしてきた同社。「昨日より進化した日本酒」を一貫して目指し、常に新たな取り組みを発表している。そして今秋、2023年9月にはニューヨーク州ハイドパークに最先端の酒蔵とテイスティングルームをついにオープン!世界に発信する土台となる酒蔵をニューヨークに建設することで、世界における日本酒市場の拡大と日本酒ブランドの飛躍へと乗り出した。今回、業界の先頭を走り続ける4代目蔵元・桜井一宏さんに獺祭が世界に羽ばたくまでの話を順を追って聞かせてもらった。

【写真】ニューヨーク州ハドソンバレーに2023年9月オープンした「DASSAI BLUE SAKE BREWERY」【画像提供=旭酒造】


ーー老舗酒蔵の長男として生まれ、どのような幼少期、学生時代を過ごしてきたのでしょう?
【桜井一宏】物心付いたころから当たり前のように“酒蔵の中で暮らしている”という感覚でした。もとはいまの酒蔵のある場所に木造の酒蔵が建っていて、私たち家族の住居も兼ねていました。奥にある杜氏の部屋に私が顔を出すと、焼いた酒粕を食べさせてくれたり、夜に酒蔵の電気を消す手伝いをしていたときは、誰もいなくなった蔵が真っ暗になるのが本当に怖くて。最後のひとつの電気を消したあと、一目散に自室に走って戻っていたのも小学生時代の記憶として思い出します。酒蔵が遊び場であり、生活の一部でした。

【桜井一宏】祖父も父も酒蔵に住み、酒造りをしている背中を見て育ったので、長男である自分が継ぐことになるだろう、というのは自然な流れで思っていました。ただ、東京の大学に進学したことで家業と物理的、心理的な距離が離れ、結果的には社会人駆け出しのころには酒関係とは異なるメーカーで働き、家業と距離を置いていた時期もあります。学生時代には親が米や野菜と合わせて“我が家の酒”を段ボールに詰めて送ってくれていましたがあまりに身近にあるものだったので、おいしいと思いつつもきちんと価値を評価する事ができなかったのが正直なところです。社会人となり自分の稼ぎで酒を飲み始めたとき、ようやく家業への認識が改まりました。自分の金で東京で名だたる銘酒を体感して初めて「あ、うちの酒はやっぱり特別だ」「おいしいという価値をきちんと広げていく事は意義がある」という思いに至ったのです。そして2006年に入社し、酒造りの現場の下積み、ニューヨークはじめ海外での営業を経て、2016年に4代目蔵元となりました。

――「獺祭」人気が全国、ワールドワイドに広がった経緯、戦略をあらためて教えてください。

旭酒造4代目蔵元・桜井一宏さん。2016年に代表取締役社長に就任し、日本酒業界に旋風を起こしている。「『獺祭』がデビューしたころは逆風もありました」と語る【撮影=川崎賢大】

【桜井一宏】「獺祭」が本格的にデビューしたのは1990年。それまで造っていた酒が地元の山口で売れない。では販路を広げてみようと九州、広島そして首都圏へと先代が売り込みをしていたときに、東京の数件の飲食店や酒屋が興味を持ってくれました。「獺祭」はそれを突破口に、純米大吟醸特化へと舵を切るなかで生まれたものです。当時の日本酒業界は「米の磨きは50%で十分。そこからは杜氏の腕で魅せるのが矜持だ」という時代。そこに私たちは単純に「もっと磨けば美味しいだろう」と言い出したわけです。「山田錦を磨き抜くことに価値を見出したこと」。それは新しい発見とまでは言いませんが、革新的なものでした。約3年後には、日本で一番磨きをかけた現在の主力商品「二割三分」(山田錦を77%磨いたもの)を発売。“磨きの美学”は当時一般のお客様と酒造関係者とで、捉え方は温度差がありましたが、少しずつ共感してくれる人が増えていきました。シンプルに「磨いたやつがうまいからもう一杯飲みたい」という一般のお客様にとことん正面から向き合ったことが結果的によかったんだと思います。東京で人気が高まったあと、山口にはいわば“逆輸入”で「獺祭」が入ってきた流れです。

【桜井一宏】海外においては許認可の関係で2010年ごろの台湾を皮切りにスタートしました。次にアメリカ。私自身は当初「外国人に日本酒はわからないだろう」と、どちらかというと反対派だったのですが、担当していたニューヨークでの売り込みを経るうちに「どこの国でも同じ。嗜好は違えど、おいしいものはちゃんと理解してくれる人がいる」と頭が切り替わりました。海外で展開する意味を大きく感じるようになったんです。そして、先代、私と酒蔵のトップ自らが足繁く現地に通っていたことも大きかったと思います。私たちが直に市場にコミットでき、卸し業者、飲食店、お客様も“本気”を感じ取って興味を持ってくれる。最初に火がついたニューヨークは言わずもがなの金融、ビジネス都市であり、そこに出入りする方々が「獺祭」の評判を世界に運んでくれました。それらの相乗効果で海外でのいいスタートダッシュがきれたんです。

――「獺祭」を生み出した「旭酒造」は杜氏制度を廃止したことでも知られています。

「昨日と同じ酒ではダメ。常に進化する酒を私たちは造っています」【撮影=川崎賢大】

【桜井一宏】はい。ただし、「杜氏のいない酒蔵」と聞くと「杜氏の伝統の技を機械やデータに置き換えてそのまま再現している」というイメージを持たれるかもしれませんが、そうではありません。昨日と同じ酒造りであればそれでもいいかもしれませんが、私たちは“日本酒を進化させ、新しい方向に伸ばしていく”“うまい酒でなければ意味がない”というのが基本的な考え。だから新旧に関わらずいいものは全部取り入れます。先代から続けているデータの蓄積も、近年は、より項目を細分化して管理、分析。最新の機械を買ってみて、やはり手作業のほうがいいと判断したらすぐさま戻したりすることもあります。杜氏では足りなかった部分を明確にして補足、そしてより高みへ。とにかくやってみて、ダメならば引き返すを繰り返しながら、従来の杜氏システムでは難しい領域、昨日よりうまい酒を追求しているんです。

杜氏制度を廃止したあとは分業制を取り入れ、データ管理も徹底。ブレのない純米大吟醸を造っている【撮影=川崎賢大】


【桜井一宏】また、私たちは「幻の酒で終わらせない」という思いが強くありました。注目されたときに爆発的に売れてすぐ品切れになってしまう。また逆に、たくさん造って質が落ちてファンが離れてしまったという酒はたくさんあります。

【桜井一宏】「獺祭」人気の下地が国内、海外でできあがったとき、私たちはとにかく品質を保ちながら、求められる量にも応えていきました。純米大吟醸は少し造ったら終わりというそれまでの酒蔵の常識を覆し、純米大吟醸の安定した供給に注力したことがいまにつながっています。

――2023年9月には、ついにニューヨークに新しい酒蔵もオープンしましたね。日本で造る酒と違いはあるのでしょうか?
【桜井一宏】「獺祭」はこれまでも世界約30カ国に輸出し、フランス・パリにはレストラン「Dassai Joel Robuchon」も持っていますが、海外で酒造りをするのは、今回が初の挑戦です。この新しい酒蔵で作る酒は、新ブランドとして「Dassai Blue」と名付けました。ネーミングの由来は「青は藍より出でて藍よりも青し」。つまりは「日本で造られるオリジナルの獺祭を超えていく」という思いをコンセプトとしています。環境によって、素材も、できる酒も個性があるのは当たり前。「その土地で手に入る条件のもとで最高の酒を造る」。柱となるのはその思いですね。現在のところ、Dassai Blue は獺祭と同じく日本から輸入された山田錦で造っていますが、今後はアーカンソー州の農家と協力して、米国での山田錦の栽培に3 年間を費やしていきます。

新ブランド「Dassai Blue」【画像提供=旭酒造】


――アメリカで権威のある料理学校に隣接する立地だと聞きましたが…?。
【桜井一宏】新しいニューヨークの酒蔵はマンハッタンからハドソン川を北上した、ハイドパーク市にあります。獺祭ショップやテイスティングルームも併設し、“魅せる”酒蔵を意識した造りにしています。近くには、アメリカで有名な料理学校があり、それこそ世界中からシェフの卵たちが集まってきます。そこで学ぶ未来の有名シェフたちが「獺祭」という日本酒を知り、その味・魅力に触れ、いずれは彼らが活躍するレストランで獺祭を取り扱い、世界中の都市へ獺祭を運んでくれることを期待しています。

世界中からシェフの卵たちが集まってくる、アメリカで権威ある料理学校のそばに建つ【画像提供=旭酒造】


ーー昨今の“若者の酒離れ”についてはどうお考えですか?
【桜井一宏】獺祭は比較的よく飲まれている方の酒に入ると思うのですが、そんな私たちにとっても確かにそれは感じるところです。だからといって、若者に寄せるというお題目のもとに、安価な酒を造るということが解決策だとは思っていません。あくまで、若者が“本物”の酒を体感する機会を増やす。自分で稼げるようになったらこの酒を飲みたい。という気概につながる試みをしていくことが大事かなと思っています。

――苦境の乗り越え方や、桜井さんがモットーとしていることは?
【桜井一宏】“苦境”といえばやはりコロナ禍になった2020年、特に春は厳しかったです。物流が滞り前年比40%をきったときもありました。そのころから世間はいわゆる“家飲みブーム”となったわけですが、私たちはもとより「飲食店8、家庭用2」の割合だったので、後者が増えても、前者が半減してしまっていたのでなかなか難しい状況に。大手スーパーやコンビニから「取り扱いたい」という声も多くいただいているなかで揺れる心もありましたが、意地を張り断っていたんです。その後の同年後半に、力を入れていた海外から復調の兆しが見え、ありがたいことに2021年、22年は国内、海外共に需要は増え続けています。

【桜井一宏】そのような経験のなか、あらためて言えるのは「前に進んでいれば、何とかなる」ということ。「うちは前向きな自転車操業。ふらふらしながらでも前に進んでいけば道は開ける」ということをイメージしていけばいいのかなと。

【桜井一宏】私も、ヘコんでいてもしょうがないと切り替え、よりポジティブに考えるように。あとストレス発散の仕方は、酒を飲みながらブツブツ言う。ってな感じですかね(笑)。

――さまざまな苦境を乗り越えてこられた桜井さんですが、仕事面において「苦手なこと」はありますか?
【桜井一宏】いい意味での「逃げ足の速さ」が課題だと思っています。さまざまな挑戦をして、ダメだった場合の引くタイミングの見極め方がまだまだだなあと。父である先代はそのあたりの判断が特に秀でていて、「いける!」と思った際の初手のスピードも速く、「これ以上、深追いしてはいけない」というにおいを瞬時に感じ取り、引き際がとにかく速かった。経営者として必要な素質だと思っていますが、自分はまだまだそこまで至っていないかもしれません。先代を見習って、身につけていきたいスキルですね。

3 代目の桜井博志会長と4 代目の桜井一宏社⾧【画像提供=旭酒造】


――旭酒造のこれからを教えてください。
【桜井一宏】うまい酒でないと意味がない。そして、うまい酒は国境も言語も文化も超えていく。ということを肌で感じ、今後も確信しています。

【桜井一宏】まずは、今年オープンさせたばかりのニューヨークの酒蔵を起点に、世界に純米大吟醸の魅力を広めることが命題です。日本酒は海外でワインと比較されますが、2つは別のアプローチで造られるものです。米とブドウとで材料も違えば、製法も異なります。ワインは寝かせて熟成させて価値があがったりしますが、日本酒はより新鮮な状態、フレッシュローテーションで楽しむのが一般的。もちろん酒造りにストーリーがある点は似ているので、外国人が日本酒の味わいだけでなく、その背景にあるストーリーにまで興味を持ってくれれば、海外での日本酒人気はまだまだ伸びてくると思います。

また、来年には国内に新しい酒蔵の建設も予定しています。この酒蔵は特に磨き抜いた「二割三分」と「その先へ」に特化した酒蔵にする予定です。国内外問わず、日本酒の可能性をもっともっと広げていけたらと思っています。

「この1、2年は国内、海外共に酒造りの環境をより強固なものにする時期だと思っています」【撮影=川崎賢大】


【プロフィール】 桜井一宏(さくらいかずひろ)。旭酒造株式会社 代表取締役社長。1976年山口県出身。ワールドワイドな人気を誇る純米大吟醸「獺祭」を仕込む「旭酒造」の4代目蔵元。早稲田大学社会科学部を卒業し他社を経て、2006年に入社。2016年代表取締役社長に就任し、国内、海外共に業績を伸ばしてきた。2023年9月に、念願だったニューヨークに海外初の酒蔵をオープンさせた。

この記事のひときわ #やくにたつ
・業界の常識よりも消費者のニーズに向き合う
・新旧に関わらず良いものは全部取り入れる
・ふらふらしながらでも前に進んでいけば道は開ける

取材・文=上村敏行/撮影=川崎賢大

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