元官僚が廃業寸前の豆腐屋に!?運輸省を辞めて家業を立て直す!わずか3年で黒字化した秘訣を聞いてみた

東京ウォーカー(全国版)

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元官僚という経歴の持ち主が約20年前に家業を継ぎ、廃業の危機から約7倍の売上を生み出す組織へと立て直した。彼の名は平川大計さん。運輸省(現国土交通省)の元官僚で、現在は佐賀県武雄(たけお)市に本店をもつ「佐嘉平川屋」の3代目社長である。経営危機に陥っていた小さな豆腐店を黒字化させ、現在では地域を背負って立つブランドにまで育てた平川さんの仕事術について話を聞いた。

創業72年を迎えた佐嘉平川屋。3代目の平川大計さんが仕掛けるのは豆腐屋を超えたブランドづくりだ【画像提供=佐嘉平川屋】


ーー平川さんは運輸省(現国土交通省)の元官僚だったそうですが、当時はどのようなお仕事に携わっていたのでしょうか?
【平川大計】運輸省時代は3つの部署を経験しました。新潟で土木関係の部署にいたころは、信濃川のトンネル工事に携わり、その後本省に戻って港湾局で「港湾EDIシステム」という、港湾関連の申請や届出などの行政手続を電子化するための仕組みづくりに奔走しました。それから行政改革プロジェクトのチームにも少し在籍し、最後は航空局を経験し、中央省庁再編に伴って国土交通省に統合される直前の2000年7月に辞めました。

運輸省時代の平川さん(左から3番目)【画像提供=佐嘉平川屋】


【平川大計】港湾局時代はとんでもないハードワークで、本当に鍛えられましたね。今でこそ行政DXや自治体DXなどは当たり前ですが、当時はまだインターネットも一部の人しか使えないという時代の中、自治体、団体ごとにバラバラだった港湾関連の手続きをひとつのシステムにするという途方もないプロジェクトだったので、まず合意形成自体が困難で。目先の利益だけでなく事業全体を長期的に見るという仕事に対する取り組み方、現場を俯瞰で見る力、ストレス耐性などはこの時代の経験によって得られたと思いますね。

【平川大計】港湾局時代がハードすぎて、次の航空局ではそれまでより少し余裕を持つことができたのですが、結果的にそれが官僚を辞めるきっかけになります。自分の今後のことをじっくり考える暇ができたんですね。当時、IT起業という言葉が流行るほど若い世代で起業がブームになっていたこともあり、自分でも何かやってみたいという気持ちが芽生えてきたのです。

ーーそこで家業を継ごうと思ったのですか?
【平川大計】いえいえ!実家でもずっと“豆腐屋なんか継がなくていい”と言われていましたし、私も継ぐ気はまったくありませんでした。もともと都市計画に興味があり、運輸省に入ったのもそういう事業に携わりたかったからということもあって、都市計画に関わる何かで起業するつもりでした。起業しようと決めてから、行動を起こすなら1日でも早いほうがいいと考えて運輸省を辞めました。それでまずは1年くらい家業を手伝いながら経営について勉強させてもらおうと思い、佐賀に帰ってきたのです。

1990年代当時はスーパーへの卸売りが主な売上だった【画像提供=佐嘉平川屋】


【平川大計】手伝い始めてまず着手したのは“経営状態を把握すること”ですが、帳簿関係はすべて紙ベースで管理されていたので、最初の1カ月はその数字をエクセルにひたすら入力していくという作業でしたね(笑)。それで数字をずっと見ていて気づいたのですが、自分が思っていた以上に経営状態が悪かったのです。当時はスーパーに豆腐を卸すことでメインの売上を立てていましたが、大口の取引先だった地元のスーパーが数年前に経営破綻した煽りをもろに受けていました。決算書上は黒字ではありましたが、金融機関からの借り入れも断られていましたし、「このまま行くとうちも破綻するぞ」と気づきました。

【平川大計】それはうちに限った話ではなく、豆腐屋自体が儲からなくなっていました。豆腐は賞味期限が短く、狭いテリトリーで商売をすることで成り立っていて、スーパーという小売のスタイルが一般的になるにつれてスーパーへの依存が進行。圧倒的な力関係ができてしまい、絵に描いたような薄利多売で利益を生み出せない体質になっていたのです。それで、「このままでは廃業待ったなしだ、これはなんとかしなければ」と本腰を入れて家業に携わることにしました。経営状態がよかったら、継ぐことはなかったでしょうね。

ーー通販事業に目をつけたきっかけはなんだったのでしょうか?
【平川大計】弊社の看板商品は「温泉湯豆腐」です。当時から知名度こそ低かったのですが、すでに細々と通販にも対応していました。通販を開始したのは1989年のことです。もちろん、当時はまだインターネットが普及していなかったので、お中元やお歳暮の時期に電話やFAXなどで注文を受けるのがメインでしたが、それなりに顧客もついていて売上全体の5%ほどは通販で上がっていたのです。それまでのように卸しがメインだと、どうしても間にいくつも会社が入るのでキャッシュフローが遅くなりますよね。でも通販は注文いただくとお客様から直接入金がある。このレスポンスの速さが必要だと思いました。それで通販を事業として伸ばしていくのがいいのではないかと考えたのです。

昭和50年代当時の工場の様子【画像提供=佐嘉平川屋】

昭和61年には現在の所在地に工場を移転【画像提供=佐嘉平川屋】


ーー今も通販の主力である温泉湯豆腐は当時からあった商品だったのですね。開発された経緯はなんだったのでしょうか?
【平川大計】父親の代で商品化したのですが、通販を始める前ですから1980年代にはすでに存在していたと思います。そもそものきっかけは、取引先のスーパーから開発を打診されたことです。温泉湯豆腐は、同じ佐賀県の嬉野温泉では当たり前のように知られている料理ではあったのですが、それをご当地グルメというような形で盛り上げようという企画があり、うちに声がかかったという経緯です。

豆腐がとろりと溶け出す温泉湯豆腐は、嬉野の温泉街では昔馴染みの郷土料理【画像提供=佐嘉平川屋】


【平川大計】なぜ地元の嬉野(うれしの)市ではなく隣接する武雄市にあるうちに白羽の矢が立ったのかというと、当時嬉野市の豆腐屋は旅館に卸すことがメインで、それで十分商売として成り立っていたのでわざわざスーパーのために商品開発をする必要がなかったのですね。それで隣の武雄市にあるうちに話が回ってきたということだったらしいです。最初は実際に嬉野温泉の温泉水を使用していたようですが、飲用基準に適合していないということで保健所の許可が下りず、成分を温泉水に近づけた独自の調理水を使った商品として現在まで販売しています。

通販は贈答用としての需要も高い【画像提供=佐嘉平川屋】


ーー通販事業に目をつけてわずか3年で大きく黒字化したそうですが、何が勝因だったとお考えですか?
【平川大計】帳簿上ギリギリ黒字という状況から、3年で売上は2倍となり利益は劇的に増えました。外注していた梱包を内製化し、送料を交渉して地道にコストを削減するところから始めましたが、それとは別に力を入れたのが“売り方”の工夫です。DMとして郵送していた顧客へのチラシを、売り手の思いが伝わるようにストーリーを感じさせるものに変更しました。当時はまだ珍しかったホームページもかなり初期から作成しましたし、興味を持ってもらう工夫、思いを伝える工夫は心がけましたね。受け身にならず、こちらから情報を発信する場を作るということです。それによって、お客様だけでなくメディアの目にも徐々に留まるようになっていきました。一度メディアで取り上げられると、メディアがメディアを呼ぶ波及効果がありますので、それで知名度が上がったという面もありますね。

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