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かつて“爆弾ソース”と呼ばれたことも!?日本初のお好みソース「オタフクソース」創業100周年の歴史に迫る

2023/03/08 08:00 | 更新 2023/03/14 14:35
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お好みソースの人気メーカー「オタフクソース」が、2022年11月26日に創業100周年を迎えた。1922年の創業以来、お好み焼きという食文化を広めるために走り続けてきたオタフクソース。その100年の歩みに迫るため、今回はオタフクホールディングス株式会社執行役員広報部長の大内康隆さんにインタビュー。創業のルーツ、お好みソースの開発秘話、海外展開など、オタフクソースの100年の歴史について聞いてみた。

お好み焼きといえば、のオタフクソース
お好み焼きといえば、のオタフクソース【画像提供=オタフクホールディングス】


始まりはお好みソースではなく、まさかのお酢だった!

佐々木商店の創業時
佐々木商店の創業時【画像提供=オタフクホールディングス】

1922年、創業者・佐々木清一氏が醤油の卸や酒の小売をする「佐々木商店」を広島で創業したことからオタフクソースの歴史は始まった。創業前から「大勢の人に心から喜んでもらえるものづくりがしたい」そんな思いを持っていた佐々木氏は、1938年に醸造酢の製造を開始。そしてでき上がった酢は、現在の社名にも通じる「お多福酢」と名づけられた。

創業者がこだわって醸造した「お多福酢(一升ビン)」
創業者がこだわって醸造した「お多福酢(一升ビン)」【画像提供=オタフクホールディングス】


「当時氷酢酸を使った合成酢が一般的でしたが、必ずしも体にいいわけではありませんでした。そこで、健康を意識して米から作ることにこだわったのが“お多福酢”です。『多くの人に福を広めたい』という思いから名づけられました」と、大内さん。

創業者の佐々木氏がお多福酢を醸造する様子
創業者の佐々木氏がお多福酢を醸造する様子【画像提供=オタフクホールディングス】


酢の醸造を始めたのは、日中戦争の真っ只中だった。佐々木商店は広島市内の一部の酢の配給を任されることとなり、戦時中も醸造を続けていたという。しかし1945年の原爆投下により広島の町が全焼。佐々木商店も燃え尽くされてしまった。

「戦後は知人を伝って酢の醸造を再開しましたが、当時の創業者は家族で新たなことに取り組みたいという思いを持っていたようです。そんなとき、納入業者から『これからは洋食の時代になる』とアドバイスを受けて、ソース作りという新たな一歩を踏み出すこととなりました」

お好みソース誕生のきっかけとなったのは、業者の何気ない一言からだった。そこから佐々木商店はソース開発に向けて歩みを進めていくこととなる。

日本初のお好み焼用ソースが誕生。ヒントになったのは、あんかけ料理⁉️

そもそも、広島でお好み焼きという食文化が広がったのには、2つの理由があった。

まず1つ目は、呉市に海軍の警備や監督を担当していた機関「呉鎮守府(くれちんじゅふ)」が設置されたこと。その下に置かれた造船部であり、ドイツの「クルップ」と並び、“世界の二大兵器工場”と称された「呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)」で戦艦「大和」が建造されるなど、造船が盛んになると広島に鉄加工の工場も拡大していった。そんな背景から鉄板が手に入りやすかったため、鉄板焼きの文化が浸透したと言われている。

そして2つ目は、戦後アメリカ軍からの救援物資のひとつにメリケン粉(小麦粉)があったこと。当時の人々は少量のメリケン粉を多めの水で溶き、生地を薄く伸ばして焼き上げて空腹をしのいでいたという。それが少しずつ進化し、生地の上にネギやもやしをのせ、ウスターソースをかけて食べるようになった。これが広島お好み焼きの元祖とされる「一銭洋食」で、戦後の復興とともに進化をし、広島のソウルフードになっていったと言われている。

「ウスターソースの製造を始めたものの、ソースの販売は最後発とも言えるほど遅かったんです」と、大内さんは語る。「1年がかりで開発しましたが、問屋さんは特約店(特定メーカーの商品に限定して卸す)の縛りが厳しく交渉が困難でした。そこで新たな営業先として飛び込んだのが、お好み焼き店だったんです」。戦後間もない昭和20年代初期には、一銭洋食の上に少しばかりの豚肉をのせた「お好み焼き」が登場し始めていた。そんなころ、ウスターソースを使うお好み焼き店ではある共通の悩みを抱えていたと言う。

「ウスターソースはとろみがなくサラサラしているため、生地にとどまらずに垂れ落ちてしまうんです。そのため、鉄板に流れ落ちて焦げ付いてしまうのがお好み焼き店の悩みの種でした」。「お好み焼きに合うソースがあったらのー…」という店主の言葉をきっかけに、とある料理をヒントにお好み焼きに合うようソースの改良を始めた。

1952年に誕生した「お好み焼用ソース」
1952年に誕生した「お好み焼用ソース」【画像提供=オタフクホールディングス】


「あんかけ料理のとろみを参考にしてソースを作り直したそうです。しかし、ウスターソースにとろみを加えるだけでは辛くて食べられない。そこで塩を控えて作れば、今度は酸味が際立ちすっぱくなってしまう。五味の調整を取りながら試行錯誤を重ねて、2年の歳月をかけて誕生したのがまろやかでとろみのあるお好み焼専用のソースでした」

こうして1952年に日本初の「お好み焼用ソース」が発売された。これが後の「お好みソース」である。しかし、ここで予測不能な事態が起こる…。

ビンが破裂する爆弾ソースに⁉️ “広島の味”として普及

やっとの思いで誕生したお好みソース。しかし発売以降、発酵によってビンが破裂してしまうケースが頻出し「爆弾ソース」と呼ばれるようになってしまった。

「防腐効果のある塩と殺菌作用のある酸をウスターソースは多く配合していますが、それに比べてお好みソースは塩分と酸味を落としています。塩分と酸味が多いことは安全に保存するために重要な要素。創業者の『体に悪いものは使いたくない』という思いから、お好みソースは防腐剤などの添加物は一切入れていなかったので、保存面で課題のあった配合でした」

さらに当時の殺菌技術も原因のひとつだったそう。「今より殺菌技術が発達していなかったため、酵母などの菌が死滅せずビンの中に残り発酵が起きてしまいました。発酵ガスがビン内に充満して栓が飛んだり、プシューとソースが飛び出てしまったり、最悪の場合はビンの容器が破裂したりと、お客様にご迷惑をおかけしてしまいました」

お好み焼用ソースの製造風景。当時はビン詰めだった
お好み焼用ソースの製造風景。当時はビン詰めだった【画像提供=オタフクホールディングス】

爆弾ソースと呼ばれる一方で、各地で評判となっていたお好みソース。「全国でも展開してほしい」との要望があったにもかかわらず、現場でクレームが入った場合に対応ができないことを懸念し、広島を中心とした地域に限定して販売を続けていた。

「お店様にご迷惑をかけた場合、社員が現場でクレーム対応をすることを徹底していたため、自分たちの手の届かないところには売らないという方針でした。いつの間にか『広島の味』と言われるようになったのはここから来ているのかもしれませんね」

その後、醸造酢よりもソースの売上が増え、イメージが強くなったことから「オタフクソース株式会社」に社名を一新し、本社工場も移転。最新の殺菌装置を整えることで、爆弾ソースから脱却したのだった。

「東京でお好み焼き文化を広めるために」開業支援の研修センターを設立

1982年にソース業界初のスクイズ容器「フクボトル」で家庭用のお好みソースを販売し、オタフクソースの商品は広島県外でも少しずつ認知度を高めていった。そこで東京や大阪への販路拡大も目指そうと試みるが、当時、東京にはお好み焼き店が数少なかった。

使いやすい「フクボトル(500g )」でお好みソースを展開
使いやすい「フクボトル(500g )」でお好みソースを展開【画像提供=オタフクホールディングス】


「大阪にはお好み焼き文化が根づいていますが、東京に行くとお好み焼きの存在すら知らない方が多かったんです。食文化を広めるには、まずは食べてもらうことから。外で食べた料理がおいしかったなら、家庭でもその味を再現してもらえるはず。食文化を浸透させるためには、まず東京にお好み焼き店を増やすことが課題となりました。そこで1987年に東京でお好み焼き店の開業を目指す方を支援する“お好み焼研修センター”を開設しました」

開業を目指す人を対象とした「お好み焼研修センター」
開業を目指す人を対象とした「お好み焼研修センター」【画像提供=オタフクホールディングス】


現場では広島や大阪の老舗のお好み焼き店の店主を講師として招き、お好み焼きの作り方や店舗運営ノウハウを指導した。お好み焼きを日本各地に広めつつ、1998年には名古屋、大阪、福岡にも開設。現在は全国8カ所に設備を設け、東京、大阪、広島、福岡で定期的に開業支援研修を行っている。

「広島では月に1、2回、お好み焼きにまつわる勉強や焼く練習を3日間かけて行っています。この研修を通じて開業された方も多く、お好み焼き業界の最新情報を発信する「お好み焼提案会」に昔からオタフクソースの商品を使ってくださっているお店様にも参加いただいています。少しでもお好み焼き文化を広げる一助になれたのかなと感じられますね」

101年目からも「食文化と合わせてソースを世界に広めていきたい」

お好み焼きの文化が学べる「お好み焼館」
お好み焼きの文化が学べる「お好み焼館」【画像提供=オタフクホールディングス】

1998年には「お好み焼課」を発足させ、2006年には社内資格制度「お好み焼士」を設けた。2008年には「Wood Egg お好み焼館」を開設させるなど、オタフクソースは常に日本にお好み焼きを広めるために注力してきた。さらに1998年には「世界にもお好み焼きを広めたい」という思いから、アメリカ・ロサンゼルスに「OTAFUKU USA,Inc.」(後のOtafuku Foods,Inc.)を設立。

「最初に海外法人を設立した1998年がターニングポイントとなり、現在は海外事業の売り上げが全体の16%を占めています。2021年11月時点では海外事業の売り上げが約33億と順調でして、2019年に出した中期計画では、3年後の2024年に50億を目指すという目標を掲げています」

海外の日本食ブームも追い風となり、お好み焼きは野菜がたっぷり入ったヘルシー料理としても世界中で親しまれているようだ。「野菜が多く食べられるうえに、旨味豊かなお好みソースの味わいも珍しいようで、ソース自体もおいしいとご好評いただいています。日本と同じく、海外においても単に調味料を売るのではなく、メニューと合わせてソースを提案していますので、今後も食文化と合わせてソースを広められれば」と大内さんは意気込む。

100周年を迎えたオタフクソースの物語を紐解いたら、戦後に登場したお好み焼きという新たな食文化を広めるために尽力した歴史があった。2018年には外国の方にも認識してもらえるようにとロゴマークを英字に刷新。101年目を歩むこれからのオタフクソースは日本に留まらず、世界にもお好み焼き文化を広めていく。

この記事のひときわ#やくにたつ
・ビジネスチャンスの鍵は、現場の悩みを解決することにある
・商品販路拡大のためにまず文化を浸透させる

取材・文=左近智子

■オタフクソース100周年記念サイトhttps://www.otafuku.co.jp/100th/

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