新里酒造の挑戦とこれまでの道を聞いてみた
新里酒造の挑戦とこれまでの道を聞いてみた

創業1846年―。“ 泡盛”の蔵元「新里酒造」は、現在7代目の新里建二さんが当主を務める 。「全国酒類コンクール」泡盛部門で第1位受賞(2017年春・秋・2018年春の3季連続受賞)、「TOKYO WHISKY&SPIRITS COMPETITION2022」銀賞受賞と華々しい実績を誇る沖縄最古の泡盛酒造所だ。日本が江戸時代の頃に産声を上げ、その頃の沖縄は琉球王朝時代。沖縄戦で新里酒造は泡盛のすべてを失うが、幾多の困難を乗り越え176年の歴史を綴ってきた。現存する沖縄の泡盛酒造所として最も古い酒造所が、老舗という地位に甘んじずウイスキー製造にも乗り出すなど新しい挑戦も諦めない 。守りに入らずチャレンジを続ける企業の姿勢について話を聞いた。

新里酒造7代目蔵元・新里建二さん
新里酒造7代目蔵元・新里建二さん


――琉球王朝時代の泡盛造りについて聞かせてください。
【新里建二】あの頃の泡盛造りは王府の管理下にありましてね、「首里三箇(しゅりさんか) 」といって首里城のまわりの赤田、鳥堀、崎山の3カ所 で泡盛を造っていたんです。造ったお酒はすべて王府に納めていました。ほぼ公務員みたいなものだったと思います。貴族とか中国からの冊封使に差し上げるお酒で、一般人が飲めるお酒ではなかったんです。酒造りに非常に厳しい時代でしたね。お酒のもろみを腐らせて駄目にさせた人は、罰として、重いときには島流しされたり。命をかけてお酒を造っていたと思いますね。泡盛は、麹の管理やもろみの管理が大切ですが、蒸留が一番重要。沖縄は守礼の邦(しゅれいのくに)でしてね、ペリーが沖縄に来て首里城で歓待した話もあります。そのときの話はペリーの手記にも残されています。「ヨーロッパのお酒にも似たお酒を振る舞われた」とありますが、それはおそらく泡盛の古酒(くーす)じゃないかと。その頃、泡盛酒造所は数社だけだったので、ペリーにふるまった酒は、ひょっとしてうちの酒だったかも(笑)。

昭和初期の沖縄。首里城からみた首里赤田
昭和初期の沖縄。首里城からみた首里赤田


【新里建二】この絵は沖縄の昭和初期、戦前です。首里城から見た赤田の様子。煙突があるものが酒屋。けっこうありますでしょう?酒屋は、昭和初期で100軒近くあったと聞いています。沖縄方言で「フール」と呼ばれる豚小屋兼便所もあります。泡盛を造るときに残る酒粕を豚にあげていました。SDGsでしょ?(笑)。僕らの創業者は新里蒲(カマ)で、首里三箇の赤田出身。うちの親父は小さい頃、昭和初期に首里の街を歩くと、蒸留の香りと養豚の匂いが混じった変わった匂いがあったと言っていました。僕らは大正時代、2代目のときに那覇の若狭に移ったから、絵の中にうちらの酒造所はありません。廃藩置県後にほかの酒造所も首里から各地に移りましたが、戦争で酒造所が淘汰された。僕らもある程度の蔵の大きさがあったので、戦時中は日本軍に蔵を接収されました。戦争で僕らの泡盛は全部駄目になりましたが、戦後、親父のおふくろがまた最初から始めました。僕たちの先代は泡盛だけじゃなく、石油や石炭など貿易みたいなことをやっていたらしいです。酒屋は副業みたいな。

創業者の新里蒲(カマ) は、首里三箇の赤田出身。これは創業者の肖像画
創業者の新里蒲(カマ) は、首里三箇の赤田出身。これは創業者の肖像画


【新里建二】今の沖縄市の本社に来る前は、那覇の牧志で酒造りをやっていましたが、大都会の真ん中だから広げることもできないし、工場の匂いのこともあり、郊外に移さないといけないということになって、36年前に那覇市から沖縄市に移り、「沖縄市のお酒」として始めました。その後、16年前にうるま市に新工場を作りましたが、本社は沖縄市のままです。

沖縄市の元市長・桑江朝幸さんから「沖縄市に来ないか?」と誘われたという。「おかげで、僕たちは沖縄市に来ることができた。感謝です」
沖縄市の元市長・桑江朝幸さんから「沖縄市に来ないか?」と誘われたという。「おかげで、僕たちは沖縄市に来ることができた。感謝です」


――ウイスキー製造にチャレンジした理由を教えてください。

「一番古いというだけではメシは食えない」。1年かけてウイスキー製造の免許を取得した
「一番古いというだけではメシは食えない」。1年かけてウイスキー製造の免許を取得した

【新里建二】泡盛は、NHKドラマ「ちゅらさん」の頃がかなり良くて、そのころに泡盛と焼酎ブームが来て、焼酎が特によかったですね。そのあと2004年をピークに泡盛は17年間、低迷。僕らの会社も176年という歴史があるものの、無条件に生き残れるわけではなくて。売上をカバーするためにはチャレンジが必要だったんです。「歴史がある酒蔵」というだけでは、メシは食えない。でも、すぐウイスキーに取り掛かったわけじゃなくて、リキュールを造ったり、泡盛コーヒーなどのスピリッツを造ったり、試行錯誤しました。ウイスキーは、ここ2年です。

――生き残るためとはいえ、新しいことに挑戦したのはすごいことですね!
【新里建二】もともと泡盛の樽貯蔵酒というものをやっていたんです。「黄金の日日」という商品です。正月に向けて金箔が入った泡盛で、11~12月の季節商品です。樫樽(かしだる)貯蔵ですから琥珀色で、寝かせば寝かすほどおいしくなるんですけど、ひとつ問題があります。泡盛だけじゃなく焼酎もなんですが、色の規制があるんです。色が濃くなると、泡盛や焼酎として出せないんです。ウイスキーと区別するためのもので「光量規制」と言われています。寝かせると琥珀色になって、味も濃くなっておいしくなるのですがね…。それで苦肉の策で、仕方なく2%だけ糖分を加えリキュールとして販売しました。リキュールは色の縛りがありませんから。

「2004年をピークに泡盛が17年低迷しました。僕らは生き残るためにウィスキーを選択した」
「2004年をピークに泡盛が17年低迷しました。僕らは生き残るためにウィスキーを選択した」


【新里建二】リキュールとして色が濃いお酒を出したら、海外からの引き合いがあって、けっこう売れました。ただ海外の人からすると「ウイスキーみたいな味がするのに、なんで表示はリキュールなの?」という疑問があったみたいで。だからいっそのこと、ウイスキーの免許を取っちゃおうということで、1年かかって令和2年にウイスキーの製造免許を取得しました。輸入などの免許だったら比較的、簡単に取れますが、製造免許は設備を整えてからではないと申請できませんから、苦労しました。うちのウイスキーは今年で2年目ですが、現在製造しているウイスキーは、まだ「ブレンド」なんです。100%自前のウイスキーではなく、海外のウイスキーと自社のものをブレンドして販売しています。来年3年目にしてやっと、100%自社オリジナルの「ジャパニーズウイスキー」が出来上がります。ジャパニーズウイスキーというのは定義があり、3年間樽で寝かせなきゃいけないんですよね(※貯蔵要件として、内容量700リットル以下の木製樽に詰め、詰めた日の翌日から起算して3年以上日本国内において貯蔵しなければいけない)。なので、 来年ようやく、です。沖縄産のジャパニーズウイスキーは、沖縄ではうちが初めてになります。一番古い会社が新しいことに挑戦しているんです。

――新しいことへのチャレンジで苦労した点や失敗談がありましたら教えてください 。
【新里建二】ウイスキーを出すときは、すべてが手探りでしたね。一つひとつに四苦八苦しました。従業員を県外のウイスキーの工場に研修に行かせて、ノウハウをみがいてもらいました。大手の会社はなかなか引き受けてくれませんでしたけどね。現在は、販売免許は持っているので、スコットランドからウイスキーの原酒を輸入し、そのまま売ると工夫もなく面白みもないので、もともとやっていた13年ものの樫樽貯蔵の泡盛とブレンドして発売しました。それが「新里WHISKY」。泡盛とウイスキーのハイブリッドです。泡盛ファンにもウイスキーファンにも飲んでいただきたいな、と。そしたら、意外に好評で。あまり悪評をきいたことがない(笑)。純粋なうちのウイスキーは来年!これもまた、みなさんの反応が楽しみです。

「来年ようやくジャパニーズが出せます。沖縄産は初めてです」
「来年ようやくジャパニーズが出せます。沖縄産は初めてです」


――若者の“泡盛離れ”については、どうお考えでしょうか?
【新里建二】今までは「オリオンビールを飲んだあとは泡盛」とかいう感じがあったと思いますが、最近ハイボールが流行り始めている 。ハイボールが流行った当初は歓迎しました。というのも、ハードリカー(※アルコール度数の高いアルコール飲料)に目を向けているのなら、それはいいんじゃないかと。泡盛もウイスキーも度数が高いから、若い子たちが、そこに目を向けるのならいいと思った。でもそれは最初だけ。驚いたことに、ハイボールを飲む人は、最初から最後までハイボールなんですよね。泡盛にいかない(笑)。それが若い人だけだったらいいんだけど、僕らのような年配の人までハイボールと言い始めた。しかも、最後までハイボール。そのとき、危機感を感じました。「まずいな」と。ハイボールは脅威ですね。

――消費者はなぜこんなに泡盛よりハイボールを気に入ったのでしょうか?
【新里建二】僕らの年代はウイスキ-から入っているので、ハイボールに抵抗がないんです。余計に泡盛から離れていく。相当危機感を感じています。なんというか、業界的にはいまさら遅いという人もいるかもしれないけど、地元の若い年齢層に泡盛をピーアールすべきだったと思う。反省ですね。新潟などでは日本酒の大きなイベントがありますよね。泡盛も酒造会社の若いメンバーが中心となって「島酒フェスタ」という形で2年ぐらいやりましたが、コロナでここ2年はやっていない。ああいうものをもっと10数年前からやっていれば、もう少し若い年齢層が泡盛に触れることができたかなと。取り組みが遅かったのかなって。まぁただ、僕らも老舗の看板だけではメシは食えませんから、やっぱり今こそ新鮮な気持ちで、新しいことにも目を向けていきたい。うちは沖縄最古の蔵元と言っているのだけど、知っている人はわずかですよ。沖縄最古の蔵元がウイスキーも造っているよ、というのも、まだまだ知られていませんしね。今年の「沖縄の産業まつり」(※2022年10月に開催)は、半分は泡盛、半分はウイスキーで出店します。大きなPRの機会かなと思います。

――新里酒造はずっと長男が継がれているのでしょうか?
【新里建二】いや、うちの親父は次男だった、そこからブレている(笑)。僕も次男。6 代目のうちの兄は6年前にガンで急死してしまって。急遽、僕が社長になった。うちの兄の子ども2人がウイスキー製造と経理で仕事していますから、彼らのどちらかが次期当主だと思います。

「若者の泡盛離れで下を向いているばかりではしょうがない。新鮮な気持ちで新しいことに目を向けていきたい」
「若者の泡盛離れで下を向いているばかりではしょうがない。新鮮な気持ちで新しいことに目を向けていきたい」


――次期当主に期待していることを教えてください。
【新里建二】当然、沖縄最古の蔵元を末代まで続けてほしいです。やるべきことは、目の前のウイスキー事業を成功させることがミッションだと思いますね。「和醸良酒(わじょうりょうしゅ)」という言葉がありますが、良い酒は和をもって醸す、人の和(チームワーク)、良い造り手たちが良い酒を造り、消費者の皆様へ届けるという意味です。これからもチームワークを大切に、おいしい酒を造っていってもらいたいです。

――24年後の創業200年までに8代目に変えてほしいこと、変えてほしくないことはありますでしょうか?
【新里建二】「伝統的な泡盛造り」は大切にしてほしいですね。時代のトレンドにもアンテナを張って 、取り入れられるものは取り入れる姿勢もいいと思います。流されてはいけないが、柔軟にボジティブに。僕は4年後に定年するので創業200年を間近に見ることができませんが、新しいチャレンジがあれば若い8代目に任せます。

若者へのアドバイスは「好きなことをやっていれば、おのずと道は開けます」
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この記事のひときわ#やくにたつ
・生き残るためには“守り”ではなく“攻め”、新しい挑戦が必要
・伝統は大切に、トレンドにもアンテナを張る
・流行に流されてはいけないが、良いものを取り入れる余裕をもつ
・好きなことを極めれば、おのずと道は開ける

取材・文=小鍋悠/撮影=桑村ヒロシ/取材協力=沖縄県、沖縄観光コンベンションビューロー(OCVB)